奇妙な言葉の感覚に襲われている。声を発する時なのだが、他方で今は話してはいけないとどこかでそう思っている自分がいる。支援や復興、あるいは原発をめぐる是非など、いま多くの言葉が飛びかっているのだが、注意ぶかく言葉の在り処を確かめないといけないという思いがどうしてもまとわりつくのだ。また1970年代後半からの反原発闘争を知る者として、福島原子力発電所の崩壊をめぐる、東京電力、国家、マスコミ、研究者の、保身と欺瞞に満ちた発言には、自責の入り混じった激しい怒りを感じる。「わかっていたはずなのに」。しかし今回の原発事故がエネルギー政策の転換やライフスタイルの見直しという文脈で語られるとき、そうした議論も必要だと思いながら、「がんばろうニッポン」と同じ感触をもってしまうのだ。

それは阪神淡路大震災のときの記憶でもある。言葉を失う圧倒的な廃墟を前にして、被害を饒舌に語るマスコミは、東京でオウム真理教にかかわる事件がおこると、一斉にそちらへと流れていった。また現代思想を扱うある雑誌は、地震後に東京で地震が起きた場合を想定した災害の特集を組み、多くの人文学者がこぞって近未来について論じた。だが、震災は既におき、まだ何も終わっておらず、未来は始まってはいなかった。しばしば愛読していたその雑誌だが、その後あまり読まなくなった。

今語るべきは、性急な復興でもなければ、また次の災害への防災でもない。復興にしろ「がんばろうニッポン」にしろ、そこには何かをなかったことにして前に進みたいという欲望が、やはり帯電している。善意に満ちた饒舌な未来志向は、否認の構図でもあるのだ。問われているのは、何を語るのかということだけではなく、どの場所で語るのかという問題なのかもしれない。

3月11日以降を、戦後と表現する人たちがいる。こうした安易な命名自体、到底受入れられるものではないが、いま言葉の在り処を考えるとき、たしかに戦後という設定から見えてくることはあるかもしれない。戦後日本において、戦争体験をどのように語るのかということが、大きな思想的課題として存在した。丸山真男をはじめ、そこには広い意味での戦争体験の思想化とでもいうべき営みがあったといえる。また同時にこうした戦後日本の知識人の登場は、「新しいニッポン」、「がんばろうニッポン」という未来志向のスローガンの下で、帝国がアジア全域に刻印した痛みを、記憶する前になかったものにしながら、復興という戦後を歩みだそうという否認の構図にもかかわっているだろう。結果的に、廃墟を前にして饒舌に語りだされた戦後なるものは、戦争体験を都合よく切り取り、また地下深く埋葬していった。早くから戦争体験がもつ国家と知識人への批判力を指摘していた鶴見俊輔は、「1945年8月15日、敗戦を終戦とよんですりぬけてとおろうとしたころから、戦争体験の上に手ばやく布をかぶせてそれを底辺化してしまった」と記している(鶴見俊輔『日常的発想の可能性』)。

まだ終わっていないし、始まってもいないのだ。そしてなによりもまず重要なのは、危機は進行中であり、かかる進行形を「がんばろうニッポン」への違和として見出す必要があるように思う。最初にも述べたように、反原発闘争に少しでもかかわった者は、原発がいかに容認しがたいものであるかということを、既に知っていた。それはまた、日常生活の近傍に原発を受入れた人々も同じである。わかっていたのだ。わかっていたのに、それ地下深く埋葬して過ごしてきた責任。そして、だからこそ強く思うのは、これまで通りの状態に復帰しては断じてならないということだ。そして今、わかっていたはずのことが、そして深く埋葬し押し隠していたことが、圧倒的な現実として、顔を出し始めている。

*****

原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

著者/訳者:堀江 邦夫

出版社:現代書館( 2011-05-25 )

定価:¥ 2,100

Amazon価格:¥ 2,100

単行本 ( ページ )

ISBN-10 : 4768456596

ISBN-13 : 9784768456590

▲画像をクリックすると購入画面に入ります。ここから購入してWANを応援しよう!


進行中の事態を前にして、改めて思うことは、原発とは巨大な抑圧装置であるということだ。そしてこの装置は、抑圧自体を不可視化する。放射性物質を怖れず活動をする警察や消防、自衛隊、あるは東京電力の正社員が、決死隊という言葉で英雄的に語られている。しかし、原発はその稼動から一貫して、被曝労働者を生み出し続けてきた。この被曝は事故ではない。原発労働者について記述した、今もっとも読まれるべき書の一つである『原発ジプシー』を書いた堀江邦夫は、次のように述べている。「原発内の労働が、作業量ではなく、放射線を浴びることがノルマになっているという事実からすれば、労働者を『被ばく者』とすることは、むしろ前提条件でさえあるのだ」(「あとがき」『同書』)。この労働は、不可避的に身体を、修復不可能な形で死に追いやる。労働力を売る賃労働というより、いわば命を削り続けることを暗黙の前提として要求される被曝労働の存在が、未来社会をになうとされた原発存立の前提条件なのだ。

人間である以上、この労働は許されない。そうであるがゆえにこの労働の領域は、幾重もの下請けの深部に確保され、またその存在自体が不可視化される。原発労働の現場監督に従事し、本人も被曝し続けた平井憲夫は、「作業員全員が毎日被曝する。それをいかに本人や外部に知られないように処理するかが責任者の仕事です」と述べている(『くまもり通信』67号、日本熊森協会)。そして多くの人が被曝し、死んでいる。繰り返すがそれは、思っても見ない災害でも、予想できない事故でもない。原発そのものの常態が、棄民とでもいうべき労働の領域を前提にしているのだ。

この棄民領域を、なかったことにしてやり過ごしてきたのだ。それは、企業や国家の問題というだけではなく、この深部に隠された秘密が顔を出すのを監視し、かつ不可視化ながらやり過ごしてきた者たちすべての問題である。そして被曝を怖れず決死の覚悟で突入する軍人的英雄伝は、それ自体この社会全体を覆う抑圧の構造を追認し補強しているのだ。問題は、エネルギー政策の転換ではない。津波の高さの予想値の再検討でもない。原発という抑圧装置を容認し、被曝労働をやり過ごしてきたこの社会自体が問題なのだ。怖いと感じながら、それを文句のいえない立場の人に押し付け、安全だといい張ってきた社会のマジョリティたちが、問題なのだ。それは、東北という地域個別の問題では断じてなく、また東京電力という一つの巨大資本の問題でもない。

そして今、劣化ウラン弾が敷き詰められたのと同じ状態の小学校の校庭を安全だといいはり、進行する被害を風評被害といいかえてあたかも騒いでいる人間が問題なのだとし、東京電力に抗議する者たちを、公安警察を使って逮捕していく事態が、次第に浮かび上がらすこの国の相貌は、蔓延する不安を復興に纏め上げ、それに従わない者たちを問答無用で鎮圧するまさしく「防災の共同体」なのではないのか。既に始まっていた「防災の共同体」は、「がんばろうニッポン」の唱和の中で、更に飛躍を遂げようとしている。

だがしかし、大量に流れ出し続ける放射性物質により、深部に不可視化されていた棄民領域は、今、地表に顔を出し始めている。被曝の拡大は、それ自体危機であると同時に、その危機が既に存在していたこと、そして危機はまだ終わっていないし、危機後という時間はまだ始まっていないのだということを、示し続けている。不可視化されてきたこの領域は、復興の名においてやり過ごそうとするすべての動きを、全力で阻止しようとしている。蔓延する不安は、かかる棄民領域に対する最初の反応に他ならない。分岐はここにある。

奇妙な言葉の感覚に襲われている。声を発する時なのだが、他方で今は話してはいけないとどこかでそう思っている自分がいる。支援や復興、あるいは原発をめぐる是非など、いま多くの言葉が飛びかっているのだが、注意ぶかく言葉の在り処を確かめないといけないという思いがどうしてもまとわりつくのだ。また1970年代後半からの反原発闘争を知る者として、福島原子力発電所の崩壊をめぐる、東京電力、国家、マスコミ、研究者の、保身と欺瞞に満ちた発言には、自責の入り混じった激しい怒りを感じる。「わかっていたはずなのに」。しかし今回の原発事故がエネルギー政策の転換やライフスタイルの見直しという文脈で語られるとき、そうした議論も必要だと思いながら、「がんばろうニッポン」と同じ感触をもってしまうのだ。

それは阪神淡路大震災のときの記憶でもある。言葉を失う圧倒的な廃墟を前にして、被害を饒舌に語るマスコミは、東京でオウム真理教にかかわる事件がおこると、一斉にそちらへと流れていった。また現代思想を扱うある雑誌は、地震後に東京で地震が起きた場合を想定した災害の特集を組み、多くの人文学者がこぞって近未来について論じた。だが、震災は既におき、まだ何も終わっておらず、未来は始まってはいなかった。しばしば愛読していたその雑誌だが、その後あまり読まなくなった。

今語るべきは、性急な復興でもなければ、また次の災害への防災でもない。復興にしろ「がんばろうニッポン」にしろ、そこには何かをなかったことにして前に進みたいという欲望が、やはり帯電している。善意に満ちた饒舌な未来志向は、否認の構図でもあるのだ。問われているのは、何を語るのかということだけではなく、どの場所で語るのかという問題なのかもしれない。

3月11日以降を、戦後と表現する人たちがいる。こうした安易な命名自体、到底受入れられるものではないが、いま言葉の在り処を考えるとき、たしかに戦後という設定から見えてくることはあるかもしれない。戦後日本において、戦争体験をどのように語るのかということが、大きな思想的課題として存在した。丸山真男をはじめ、そこには広い意味での戦争体験の思想化とでもいうべき営みがあったといえる。また同時にこうした戦後日本の知識人の登場は、「新しいニッポン」、「がんばろうニッポン」という未来志向のスローガンの下で、帝国がアジア全域に刻印した痛みを、記憶する前になかったものにしながら、復興という戦後を歩みだそうという否認の構図にもかかわっているだろう。結果的に、廃墟を前にして饒舌に語りだされた戦後なるものは、戦争体験を都合よく切り取り、また地下深く埋葬していった。早くから戦争体験がもつ国家と知識人への批判力を指摘していた鶴見俊輔は、「1945年8月15日、敗戦を終戦とよんですりぬけてとおろうとしたころから、戦争体験の上に手ばやく布をかぶせてそれを底辺化してしまった」と記している(鶴見俊輔『日常的発想の可能性』)。

まだ終わっていないし、始まってもいないのだ。そしてなによりもまず重要なのは、危機は進行中であり、かかる進行形を「がんばろうニッポン」への違和として見出す必要があるように思う。最初にも述べたように、反原発闘争に少しでもかかわった者は、原発がいかに容認しがたいものであるかということを、既に知っていた。それはまた、日常生活の近傍に原発を受入れた人々も同じである。わかっていたのだ。わかっていたのに、それ地下深く埋葬して過ごしてきた責任。そして、だからこそ強く思うのは、これまで通りの状態に復帰しては断じてならないということだ。そして今、わかっていたはずのことが、そして深く埋葬し押し隠していたことが、圧倒的な現実として、顔を出し始めている。

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原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

著者/訳者:堀江 邦夫

出版社:現代書館( 2011-05-25 )

定価:¥ 2,100

Amazon価格:¥ 2,100

単行本 ( ページ )

ISBN-10 : 4768456596

ISBN-13 : 9784768456590

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進行中の事態を前にして、改めて思うことは、原発とは巨大な抑圧装置であるということだ。そしてこの装置は、抑圧自体を不可視化する。放射性物質を怖れず活動をする警察や消防、自衛隊、あるは東京電力の正社員が、決死隊という言葉で英雄的に語られている。しかし、原発はその稼動から一貫して、被曝労働者を生み出し続けてきた。この被曝は事故ではない。原発労働者について記述した、今もっとも読まれるべき書の一つである『原発ジプシー』を書いた堀江邦夫は、次のように述べている。「原発内の労働が、作業量ではなく、放射線を浴びることがノルマになっているという事実からすれば、労働者を『被ばく者』とすることは、むしろ前提条件でさえあるのだ」(「あとがき」『同書』)。この労働は、不可避的に身体を、修復不可能な形で死に追いやる。労働力を売る賃労働というより、いわば命を削り続けることを暗黙の前提として要求される被曝労働の存在が、未来社会をになうとされた原発存立の前提条件なのだ。

人間である以上、この労働は許されない。そうであるがゆえにこの労働の領域は、幾重もの下請けの深部に確保され、またその存在自体が不可視化される。原発労働の現場監督に従事し、本人も被曝し続けた平井憲夫は、「作業員全員が毎日被曝する。それをいかに本人や外部に知られないように処理するかが責任者の仕事です」と述べている(『くまもり通信』67号、日本熊森協会)。そして多くの人が被曝し、死んでいる。繰り返すがそれは、思っても見ない災害でも、予想できない事故でもない。原発そのものの常態が、棄民とでもいうべき労働の領域を前提にしているのだ。

この棄民領域を、なかったことにしてやり過ごしてきたのだ。それは、企業や国家の問題というだけではなく、この深部に隠された秘密が顔を出すのを監視し、かつ不可視化ながらやり過ごしてきた者たちすべての問題である。そして被曝を怖れず決死の覚悟で突入する軍人的英雄伝は、それ自体この社会全体を覆う抑圧の構造を追認し補強しているのだ。問題は、エネルギー政策の転換ではない。津波の高さの予想値の再検討でもない。原発という抑圧装置を容認し、被曝労働をやり過ごしてきたこの社会自体が問題なのだ。怖いと感じながら、それを文句のいえない立場の人に押し付け、安全だといい張ってきた社会のマジョリティたちが、問題なのだ。それは、東北という地域個別の問題では断じてなく、また東京電力という一つの巨大資本の問題でもない。

そして今、劣化ウラン弾が敷き詰められたのと同じ状態の小学校の校庭を安全だといいはり、進行する被害を風評被害といいかえてあたかも騒いでいる人間が問題なのだとし、東京電力に抗議する者たちを、公安警察を使って逮捕していく事態が、次第に浮かび上がらすこの国の相貌は、蔓延する不安を復興に纏め上げ、それに従わない者たちを問答無用で鎮圧するまさしく「防災の共同体」なのではないのか。既に始まっていた「防災の共同体」は、「がんばろうニッポン」の唱和の中で、更に飛躍を遂げようとしている。

だがしかし、大量に流れ出し続ける放射性物質により、深部に不可視化されていた棄民領域は、今、地表に顔を出し始めている。被曝の拡大は、それ自体危機であると同時に、その危機が既に存在していたこと、そして危機はまだ終わっていないし、危機後という時間はまだ始まっていないのだということを、示し続けている。不可視化されてきたこの領域は、復興の名においてやり過ごそうとするすべての動きを、全力で阻止しようとしている。蔓延する不安は、かかる棄民領域に対する最初の反応に他ならない。分岐はここにある。

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